餅による恣意 

ゲームとか、株とか、本とか(^u^)

一個買った

 昨日久々に一銘柄購入した。

 そしたら今日はこの地合い。2、3日持つつもりで買ったけれど、今日の地合いはよろしくないようで。最近の市場の天気は変わりやすいみたいだから、危ないと思ったらすぐとんずらするつもり。というよりも、エントリー時点での逆指値は徹底しているので、ライン割ったら直ぐ切られる。

 一応の根拠があって買ったけど、同じパターンでやられたことがあるから怪しいところ。

 損切に貧乏にはなるけど、明日思うように動かなかったら損切するつもりだ。いつまでも引っ張って大損したことがあるから、仕方ないね。勉強代だ。

集中は訓練

 妹と兄に話を聞くと、集中することにそれ程苦労がないらしいのだ。

 私はもうほんとうに一つの事をするのがとても苦手になってしまって。ネットを見ていても複数の窓を開いて見るのをあちこち変えてしまう。そんな状態だと自覚があるから見るのを一つにしようと思っても、無意識に他の行動を挟むようになってしまっている。

 家事一つとっても意識はあちこちに散ってしまう。あれをしたと思えばこっち、こっちを途中のままにそっち。本を読もうとしても途中で放り出して別の本をとったり、スマホでニュースを見たり。

 散歩中にこれだけを考えるぞと意気込んで歩き始め、帰るころには自己嫌悪。なにせ数歩毎に意識があっちこっちに散ってしまうのだ。会話をしたとして、頭から尻尾まで一貫したことを言うことすらできない。思いついたものから頭を通さずに言葉にし、放った先から解けて忘れる。

 頭の中は雑多な考えがぐるぐる回り、掴もうと思っても掴めない。おそらくだが解決のための思考ではないからだと思われる。何もしないための思考。行動には至らない虚しい問答。行動もしようとせず、受け取らなければならなくなる未来像に怯え。しかもそれは破滅的なものばかり。

 

 今に留まる練習から。例えば瞑想。例えば掃除。目の前の事に意識を集中させる訓練をすること。自分の思考の首根っこを引っ掴んで、勝手に走り出すのをやめさせる。集中する習慣を身に着けることが目的で、他が多少疎かになってもいいのだ。器用にあれもこれも出来る人間じゃないんだから。

 

傾倒すること

 人間は縋る生き物だ。心の支えを欲する生き物だ。

 依存ビジネスが儲かるのは、だから必然的な事なのだともう。健康でも信仰でも習慣でも、本だったりゲームだったりでも。影響の大きいものだとお金だとか。国も人種も。

 依存するものが自分にとって重くなるほど、それが無くなったとき大きな負荷がかかる。替えの効くものならそれ程ダメージもないのだけれど。それを分かって最初から代替を用意していればいいんだけれど。替えがなくとも覚悟があれば多少はましだろうけれど。

 でも人はそれがあって当然だとか、それだけが本当だとか思考停止が楽だから、強く意識しないとそんなことは考えないように出来ている。そんなことばかりを考えていたら生活なんて出来ないから、基本的にはある程度フィルターがかかるのだ。普段から車に轢かれる可能性ばかりを見つめていたら、外に出るのはたいそう苦痛だろう。貯金が空になることを毎晩想像していたらストレスは膨大だ。何度も大切な家族が死んでしまうことばかりが頭にちらつくなら、心身ともに疲弊していくに違いない。

 しかし残念ながら失うこともまた人生の一部。

 傾倒し、さんざん時間とお金を費やしたとしても、失うときには失うものなのだ。だから色んなものに分散しておくといい。一つの考えに、一人の人間に、あるいは一つの価値観にのめりこみ過ぎないように。

 そんな保険をかけるような考え方が嫌ならばそのまま走り抜けていい。大きく成功したいなら大きく賭けるのも一つの手段だから。ただ私は、失うことを恐れる人ほど一つの事に傾倒しがちだと感じるのだ。全部賭けて、全部費やしてどんな結果になってもからりと笑えるなら素晴らしい。自分の中から生まれる答えのままに全力でやっている人はかっこいい。

 でも、不安傾向の強い人ほどそうではないのだ。ずっと未練がましく縋りついて、なかなか手放せない。依存対象を否定されるとヒステリックになる。取り上げられると何もかも奪われたように感じる。無気力になったり、暴力的になったり、自暴自棄な行動が問題解決になんの役にも立たず、むしろ状況を悪化させてしまうだろうに。

 走っていいて楽しいならそれでいい、そのまま全力でどこまでも追いかければいいのだ。走っていて苦しかったり不安だったり辛いばかりなら見直すべきだ。失うことが怖いなら、もう一つ大切なものを見つければいい。無駄な事をしていると考えるのなら、止めてしまったほうがましだ。無駄でもいいならそれが正解。正解は自分の中にしかない。

 

 

 

 

 

 

 

決めること

 この休みの期間をどう使うか。

 自分で決断すること。

 

 私は自分で決めることが異様に苦手だ。だから何事も中途半端で終わってしまう。

 途中で止めることが悪いとかいうことじゃない。止めると決めずに、あるいは諦めようと決断せずに有耶無耶な内に終わってしまうことが良くないということだ。進むにしても戻るにしても止まるにしても、自分の意志で決めたことだという自覚があるのとないのでは結果に雲泥の差が出ると思うのだ。

 自分で決めた自覚があるなら、その結果を受け止めることもできるだろう。誰かのせいにすることも少なくなるはずだ。誰かの意見を聞くにしても、自分で聞くことにしたと思えば助言をくれた相手を恨むこともないだろう。

 だからこそ決めることが怖い。誰かのせいにすることも出来なくなるし、どんな結果でも受け入れなくてはならなくなるから。

 

 自分で決めようが決めまいが、物事は進んでいく。それは絶対だ。だから自覚があろうが無かろうが人は常に選択している。悩むことを選択して、行動しないことも無自覚な決断だ。それはほぼほぼ逃避であるのだけれど、防衛であったりもするから悪いとかそういうことじゃない。誰かを責めたり言い訳しないとどうにもならないこともある。ただまぁ、やはり自分で決断していったほうがいいに決まっているのだ。

 

 私にとって、決めるということは本当に苦痛だ。

 ずっと親に依存したままここまで歳をくってしまって、恥ずかしい話だが泣くほど辛い。甘ったれて今まできた付けともいえるけれど、そんな風に自分を責めても仕方ない。辛いものは辛いのだ。そうしてズルズル長引かせたほうが後から苦しいとも知っている。というか何度も何度もそうだったのだ。私の人生は決断の先送りの結果に近い。立ち向かってこなかったか、思考停止していたのか。

 まぁこのくらいで自己嫌悪はよしておこう。

 怖いものは怖い。だからおっかなびっくり進んでいくしかない。あまり大きな影響の出ないものから自覚的に決断していく訓練からやっていく。その先に何があるのか、本当に出来るようになるのか。分からないが進まないといけないのは誰しも同じことだから。自分なりの方法で、自分なりの手段で地道に進んでいこう。

腰痛

 私はホームセンターでアルバイトしていた時からの腰痛もちで、”ぎゃっ”と声が出るくらい痛む時がある。病院は何件か行ったが、どこもレントゲンを撮って軽く診察して異常なしで終わった。

 

 足を前に伸ばして座ると右足だけ外向きに倒れる。

 痛みは不意にやってくる。例えば歩いているとき、立ち上がろうとしたとき、寝返りをうつときなど。そして一度痛めると上手くはまっていないような感じで、力が入れにくい状態になる。無理やり動かすとひねったような感覚がありとても痛い。直ぐに普段通りに歩けるようなときもあれば、数日にわたって症状が続くときもある。自分の事情をなんとか伝えようともしてみた。

 してみたが、それでも異常がないらしい。体が硬いからだとか、そんなことも言われた。先生から見れば小さな痛みを大袈裟に言っているように思えたのかもしれない。

 

 ストレッチの方法を教えられて、あとはシップを出すかとかそれくらい。

 ちょっと言い方が悪いかもしれないが、そんなものなのだ。

 因みに妹は私以上に体が硬い人間だが、腰が痛いなんてことは一度も言ったことがない。

 

 ストレッチをしてみたり、散歩を習慣にしてみたりしたが未だに治っていない。整体にも一度行ったが、症状が改善されてもいないのに良くなったでしょうと何度も言われ、呆れて止めた。

 時々怖くなる。歩けなくなったりするんじゃないかと。

 

 でもまぁ、そんなものなのだ。病院の先生も、薬も、医療設備も。

 もしかするとこの先いい整体の先生に出会えるかもしれないし、自分でもどうにかしてみようと思う。素人が変なことして酷くなったら困るからあんまりガッツリやるつもりはないけれど。生きていれば不具合も出てくるから。

 悪い事ばかりではない。歩けることの素晴らしさは多分そこらの人より感じられている。散歩は気持ちのいいものだ。失って初めて気づくとかいうけれど、正にその通りなんだろう。

コロナ休み

 緊急事態宣言で突然ゴールデンウイーク明けまで時間が空いてしまった。

 感情的に考えてしまう癖があるので整理して考えると、今回の騒動は広範に大きな影響を与えているので、当然だが私だけがどうのこうのという問題でもない。多くの人が大なり小なり被った被害があるだろうと思う。そして収束する目ども立っていないと思う。

 

 父が他界してから半年。コロナウィルスとともに聞こえてくる間質性肺炎のワードを見て、罹患されている人たちが何時容体が急変するか分からないのだと容易に想像できてしまう。軽症で済む人たちですら、父の主治医から聞いた話を思い出せば、決して大したことはないとは言えないと思われる。まぁ、長い時間をかけて進行した父と全く同じではないんだろうが、如何せん肺は重要な器官であるから容体急変も十分考えられる。

 

 私達家族は父を見送れた。

 息を引き取る瞬間まで傍にいることができた。

 もし、今も父が生きていたら。私は怖くてたまらなかっただろう。

 自分の身近な人に、感染してしまえば確実に死んでしまう人がいたら。このいつ終わるとも分からない期間をどう過ごしていただろうか。

 また経済的にひっ迫した方々も多くいると思う。仕事がないということ、金銭面の不安は私自身他人事ではないからそのストレスが凄まじいことは知っている。もともと未来など誰も知らないことではあるが、見通しが不透明であれば不安も大きなものだ。仕事をしていないこと、経済的な困窮状態であることは脳にも多大な負荷がかかる。寿命を削るともどこかで聞いたことがあるくらいだ。

 

 努力が嫌いな私が資格の受験や、これからの計画などを立てていた。何分精神的に脆いので、多くの事は出来ないながらも自分なりに。それがまぁ、ほとんどおじゃんになってしまった分けだが、また新しく計画を立てていこうと思う。

 

 自分だけどうして。

 なんでこんなに上手くいかないんだろう。

 周りの人はとんとん拍子に進んでいるのに。

 どうしてこのタイミング。

 

 思うことは沢山あると思う。

 だが、まずは現状を受け止めるしかない。それも極力感情的なものを排除して。

 起こっていることをそのまま現実として受け入れ、それからどうするか、何をすればいいかを改めて考えていく。私のような人間が言えたことではないんだけれど、問題を解決していく、前進していくとはそういうことだろう。

 

 

 話は変わるが、世の中で自己責任だという言葉が躍っている。

 私は人間が毎回正しい判断、行動をとれるとは思っていない。人は多種多様で、また全てを一人で賄えるとも思っていない。そもそも間違いやすい生き物だと思っている。だからだろうか、自己責任で切り離してしまう考えに疑問を抱いてしまう。

 甘ったれた考えなのかもしれない。自分原因論で考えれば人生の問題解決が上手くいくだろうことも想像できる。しかしどうだろう。これだけの数がいる人間という生物が一人も落ちこぼれることなく、正しくギブ&テイクの関係でいられるだろうか。物事に同じような反応を返せるだろうか。だらけること間違うことを毎回律していけるだろうか。

 私には分からない。

 もしかすると共同体という枠組みは変わっていくのかもしれない。人類の選別とかいうオカルトチックな考えの通り、人間を選別してしまえばもっと世の中は上手くいくのかもしれない。

 自己責任という言葉を言うのは容易だ。それぞれ人生の苦しい時期や積み上げてきた努力があるならなおさら。だらだら歩いている人間を責める気持ちもが湧くのも当然だろう。スペックが低い人間に足を引っ張られて頭にくることもあると思う。

 しかし、人は今のところ均一ではない。

 そしてどんな結果であれ、この世に生まれた以上は死ぬまで走り続けることを要求される。表面上、自らの意思で命を放棄することは許されていないし、その為の場所や機会は設けられていない。

 当然、私は人を責めることがある。自分の尺度から外れた人間を非難する思考、また偏見を完全に捨てきることは生きている限り不可能に近いと思う。誰にとっても納得いく答えなんて出せないし、生涯同じ思考でいるなんてこともできない。自己責任だと誰かを指さすことも絶対にないなんてことは言えない。

 他所からヤジを飛ばすのは簡単で、ある種の快感すら齎す。”正しい”という感覚は一種の陶酔がある。

 だが自分が言わる側に回ったとしたら。今まさにその状態であったとしたら。

 私は酷く突き放されたと感じるだろう。

 その言葉に反発する力がなければ、ただ下を向き腐ってしまうかもしれない。

 人間は弱くも強くもある。

 私の母は自殺未遂を何度も繰り返しながらも、なかなか死ねなかった人間だ。生命として人は頑丈にできていると言えるのかもしれない。だがしかし、ある日の晩に突然死んでしまった人でもある。人間はとても脆くできているとも言えるだろう。

 私自身精神的に非常に脆弱だ。心の底から人間に向いていないと思える。何かの拍子で自死を選ぶ可能性もないとは言えない。その際に私が遺書に誰かの名前を挙げたとして、名指しされた人間は責任を負うのだろうか。

 私が名指しされたとして責任を負えるだろうか。

 それともその時ですら、相手側を指さし自己責任と言い放つことができるのだろうか。

会話

 お喋りで悲観的で、まぁ人としてちょっとどうかという性質を持つと、会話で相手を苦しめることも朝飯前だ。自分の苦しみを永遠と吐き出すような口が、大切な人を幸せな気持ちにさせることができるだろうか。

 最近、兄弟に気が滅入ると言わせてしまった。

 そうだろうと思う。

 それでも一緒にいてくれるのだから、申し訳なくてたまらない。

 

 会話の大半は堂々巡りなものだけれど、それにしたって限度がある。

 思考している元が同じなんだから、それも仕方がないと言ってしまえばそれまでだが。現在の自身を形成する過去の経験が、それはもう根深くて根深くて。以前は、大人になって思慮分別が付けば、性格も変わっていくものだと思っていた。そうじゃないと分かってから、どうにかしようとして来たつもりだが。

 思いついたことを、言いたいことを吐き出すだけなら、それはもう会話ではないのかもしれない。誰でも彼でもに理解してくれるように呼び掛けても、それは徒労に終わるだろう。真逆の結果すらありえる。

 今自分が話そうとしていることは、伝えるべきことなのだろうか。言葉にする前に一度頭で考えること。これが凄く難しい。余計なことを言わない。何でもかんでもを発信しない。

 会話の後に、何を目的に自分は話していたのだろうかと振り返ると、本当に大したことなんて言っていない。独りよがりで、偏見に満ちていて、不確かな情報で思いつくままに言葉を吐き出しているだけだ。

 

 自分の何気ない行動を意識化すること。そして理想は、好ましくない部分を修正すること。

 我慢強く、自分がどんなことに感情を揺さぶられ、何を好きで何が嫌いか。どんな状況だと変な行動をとってしまうのか。丁寧に一つ一つ拾い集めて、客観的に観察して、感情をできるだけ取り去ったうえで、少しずつ行動を好ましいものにすり替えていくこと。合理的に考えること。

 自分の益になるものを積み重ねていけば、いずれは必ず今よりもっと生きやすくなっていく。現状を受け入れて、きちんと自分と向き合いさえすれば。一番難しいが、おそらく一番の近道。