変化
何か環境が変わる時って怒涛のごとく色々なことが重なる気がする。自分の人生に変化なんて殆ど無いんだけど、それでも全く零って訳ではないので。引っ越しなんて一度もしたことが無いから、そんな機会が来たらてんやわんやするんだろうな。
物理的な変化もそうだけど、内心的な変化も結構大変。大概成長しようとして躓くのは、生物的に変化を嫌うらしいからとか聞いたことがある。今まで生きてこれたんだから、無理して変わる必要はない。未知のリスクを負うくらいなら、現状をだらだらと続けた方がいいんだよって。
ところがどっこい、人生とは不可逆的であることが現状維持の危うさの証明になっている。
つまり時間の経過は取り返しがつかないということで。
日々同じことを繰り返していたとして、どこかでにっちもさっちも行かなくなるわけだ。だからある程度はストレスに晒される必要がある。それがどんなストレスなのかは、個々人で違うんだろうけれど。
株式市場はどうだろうね。きっと今みたいにギャンブルに近いエントリーなんて繰り返していたら、変な中毒になってしまうかもしれない。悲しいことに親は完全にギャンブル中毒だし。その血を受け継いで、自分も同じ末路に片足突っ込んでるみたいなものだし。まぁ、ちゃんとそこから這い上がる心づもりだけど。
とにかく、どうせ苦しむのなら僅かでも自分の幸福に繋がる可能性の方向に進もうと決めた。
眠れないなら寝なければいいと開き直れば、うだうだと布団の中で不安ばかりを掻き立てる妄想に振り回されることも無くなる。
結局のところあらゆる物事は酷く個人的なことなのだ。自分の外側に出ていかない。
選べるところで選択して、そうじゃない所では耐えたり、避けたりするしかない。自分で自分を鼓舞したり甘やかしたりして人間は生きている。
どれだけ頭が良くても、どれだけ頭が悪くても。
最近、心を病むのは自分以外を当てにしているからだと気が付いた。やっとだ。賢い人達が何度も忠告してくれているのに、それを実感として受け止めるまでには凄く時間がかかったし、痛い目を見た。
巷に溢れるアドラーの心理学を読んで、なんて厳しいこと言う奴なんだと最初は思ったが、あながち間違いでもないと思う。何事かをしない為にいくらでも理由を作りだせる。怖いと言えば許されると思ってしまう。これだけ私は不自由なんだと言えば逃げ出せると思ってしまう。実際そんなことはないんだけどね。屁理屈を並べても良いこと無いから。
出来ないことがあるのは分かる。誰にだって心底嫌なこともある。だけど、だったら何もしないでいいのかと言うとそうじゃない。生きていれば、出来ないことの代わりに出来ることを必死で探すしかない。
自分の能力を呪った所で、性能が向上するわけじゃない。同情してくれる人が居たとして、立ち上がろうとするのは本人の意気込み次第だ。
誰もが見向きもしてくれなくなっていったとしても、自分だけはそんな己を拾い上げようとするしかない。
ぐちゃぐちゃ書いたが、ゲームをしたり本を読んだりするのには、そう出来る環境を自分で作るしかない。自分が心地よいと思える空間を作るために、努力をしよう。たぶんこれに尽きるんだろう。
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