餅の恣意
洋楽が好きでウォークマンに曲を入れて持ち歩くようになってから随分経った。超田舎暮らしなので、近くに人が歩いているだけで落ち着かない気分になるので随分と助けられた。勿論車の中でも流しっぱなしなのだが、そうすると、その時に聞いている曲に当時の思い出がべったりついてしまうのだ。
そして私は基本的に人と関わると色々と傷つくことが多い。ちょっと価値観がおかしいのか言動がおかしいのか。まぁ個性的とでも言っておこう。とにかく集団に入ると必ずと言っていいほど浮いてしまうのだ。今はしばらくそんな環境から離れているからどうなっているか分からないが、毎朝好きな曲に元気づけてもらいつつ職場に向かった。
特定の曲を何度も何度も聞くものだから、当時の想いが鮮明に浮かんで聞けなくなったものもある。
それ以外に単純に飽きた曲もある。私は一度聞きだしたらそればっかり聞くから仕方がない。
思い返せば食べ物もそうだった。吐くまで食べてしまうようなことも、子供の頃はあった。好きなビデオテープを切れるまで繰り返し見ていた。
やはり最初っからどっかおかしいのだろう。同じ行動を繰り返すことに安心するんだろうと思っている。
同じ通学路、同じ時間帯、同じ服や靴に同じ鞄。
自分の事を振り返ってみると本当に自分は変だと思う。小さい頃からそうだったのでちょっと普通の人生は歩けていない。でもそれでもいいと今は思っている。自分がそれでいいと思えば、法に触れない限りはそれでいいのだ。
色んな軋轢があって、周りに合わせて自己を矯正しなくてはいけないことも多々あると思うが、結局人間は自分のために生きている。他は所詮外野でしかない。どんなに利他的になって所で、結局のところ利己的なのだ。
自分の外側に飛び出すなんてことは出来ない。どんなに宗教を信仰しようが、どんなに哲学しようが自分の内側を広げる作業にしか過ぎない。
同じ事を繰り返すことを好むのは保守的に過ぎるとは思うけれども、それで大丈夫だったんだからそうするんだろう。けれどそれは余りにもリスキーだ。
昨日は明日と同じではない。変わらないのなら変わらないなりに変わらなければならないのだ。
生きていれば色々と義務を課される訳だけれども、どうにかそれをクリアしないと自己を潰してでも社会貢献しなくてはならない。それで歯車が余りにも軋むものだから、命を自分で手放すのだろうと思う。
物事の基準は自分の内側にあるわけだが、その自分の内側に他人の基準を借りてきてしまうと人は本当に不幸になる。比較することで答え合わせをして自分のコンプレックスを募らせていく。そもそも自分の正解と、外側の正解は必ずしもイコールになるわけではないんだから。
かといって自分だけに固執して自己を固めていくと何処かで砕けてしまうのだ。
周りに合わせても軋み、自分にこだわるあまりに自壊する。
昔の偉い人が中庸を勧める理由がそこにあるんだろう。
頭を硬くせず柔軟に物事を考えられたならどんなに幸福なことだろう。
実際多様性を本当の意味で使うことは殆どの人間には不可能だ。対立があり、差別がある。文化的な背景が言語が肌の色が性別が、育った家庭環境が、地域が、出会って来た人間関係が、人間の思考にフィルターをかける。
長々と書いたが、一人一人に物語があり、結果がどうであれその人間なりに挑戦しているのだろう。私も変人なりに生きようと挑戦している。誰かから見れば甘ったれた奴だろうが、まだ呼吸をしてここに居る。
仮に誰かが私に唾を吐いたとしても、それはその吐いた人間の自由な行動から生まれたもので私自身では止めようもないことだ。(実際に私の妹はベンチに座っている際にパーカーに吐きかけられたことがある)その時に心底落ち込むだろうが、どうにか自分なりに咀嚼して飲み込まなければならない。否定的な意見、威圧的な行動。それらが自分を襲っても自己を肯定して生きる試みをしなければならない。
そこで自分でいるために少し変化する努力が必要なのだろう。楽しく生きるためには。少なくとも他人に振り回されず、他人を振り回さず生きるためにはどうすればいいんだろうね。
人は人、自分は自分。
自分を大切に。そればっかりは代わりがきかないんだからねw