餅による恣意 

ゲームとか、株とか、本とか(^u^)

掃除とは

 今日は朝から快晴。洗濯、トイレ掃除、風呂掃除、掃除機、亀の水換え全て終わって後は買い物を残すのみ。掃除は精神修養にお勧めである。誰かと暮らしていると、その人の性格と自身の性格の不一致で嫌な思いもする。せっかく片付けたのにとか、物を増やすのを止めてほしいだとか、なんでぐちゃぐちゃにするんだとか、不満が湧水のようにでてくるが、それこそが掃除による修養なのだ。

 日常生活、いや人間生活には不協和音がつきものである。

 お互いの価値観なんかで特に相互理解が出来ないこともが出てくる。自分ばっかり苦労してなんであいつは平気な顔をして私の苦労を増やすのだとか。自分の時間を割いてまで、共有スペースを清潔に保つ努力を掃除をしない人は理解できないだろう。協力を仰いでも嫌な顔をされ、文句を言おうものならお前がやって当たり前だというような物言いをされる。そこには絶対的な断崖があるわけで、理解を得ようとしても骨を折るだけだったりする。あげく得られたのは理解ではなく頭痛の種だけだったりする。

 私はそこに世の中の不和を見いだすのだ。相互理解不能なことは少なくない。諍いは些細なことで起こる。こんなに近い距離でお互い生活を営んでいても問題は出てくる。

 ではどうやったら気持ちよく過ごせるのか?

 理解しようとすることをある一定の範囲から止めることである。

 分かってほしいという想いは分かるが、それは自分勝手なものである。誰かに何かを求めるということは、自分の理想を押し付けることに他ならない。対話でそれが解決できるのならそれに越したことは無い。むしろそうやってお互いの棲み分けをすることが、本来コミュニケーションで求められているものだ。しかし、そういかないのが人間だ。どんなに頑張っても理解できないこと、共有できないことはある。それをどうのこうの言った所でそれは永遠平行線を辿るだけである。それは果たして自分の時間を有効に使っていることになるのだろうか?

 掃除は結局心地の良い空間づくりである。あくまでそれが目的でそれ以上ではない。清潔に保つことは身体的にも精神的にも自分にとって良い作用をもたらしてくれる。ついでに付け加えるなら体を動かすことでリフレッシュも望めるのだ。無心で作業すると頭ばっかり動かして精神的に疲れている時の休みにもなる。

 だから自分のためにそれをしているのだと思う。あんまり酷いと文句も出ようものだが、そう言った所で相手が改善してくれたことは無い。そんな時私はそんなものだと諦める。一人暮らしをする機会もあれば相手は困るだろうなと思う程度にする。時間を消費しているのだから確かに勿体無いとも考えられるが、それはやり方次第だろう。昼ご飯を食べて腹が膨らんだ時などに少し。考えが煮詰まってどうにも先に進まなくなった時に少し、それでいいのだw