餅による恣意 

ゲームとか、株とか、本とか(^u^)

色々と思う所

 やっていることが失敗するかどうか。やっていることが意味のあることなのかどうか。

 間違うのを恐れるばかりだと何も出来ない。悩むのは何もしたくないからだ。先延ばしにして言い訳をして、行動を起こすことをやめたり、今やっていることを投げ出す。

 しかし、正直何にもならんこともあるだろうに。

 全て全部意味のあることだと思うことはできるだろうが、実際そうでもない。世の中に人間が沢山存在し、生きて動き回っている訳だが、その全ての人間がそれぞれに意味を持っていると言うのもどうにも苦しいものがある。

 けれどまぁ、みんなそれぞれに尊い命だ。間違っていても、無駄なことだったとしても、その日一日命を抱えて生きる人間は、他からどう見ようがそれぞれに素晴らしい。器用に生きられる人間ばかりではなく、大多数から見れば異常な者も同じように時間を消費し何処かへ向かって歩いている。悲劇も喜劇も同じようにして生物が謳歌し、死に際は様々。分類出来てもそこに至る道は、一つとして同じものはなし。

 何処かで生かす人間がいるのなら、何処かで殺す人間もいる。普通という言葉があれば、異常という言葉が後ろ側に控えている訳で。千差万別。あらゆる色の滴が落ちて出鱈目に跳ね、着色されたがこの世界。乾いていないインクは滲み、毎分毎秒じわりじわりと変化していく。

 太極図については詳しくは知らないが、私はあれを見てこうも綺麗に分けれるものかと思った。世の中の物事は濃淡はあれど、グレーゾーンばかりでこれが正しい間違っているなど言えたものじゃない。まして白と黒の二色だけですまないのだから、世界とはなんとも度し難い。

 適切だとか、正しいだとか、そんな言葉が氾濫しているが、それが幻想だと分かるまでには随分時間がかかってしまった。この歳まで生きてきたが、間違ってもいいのだと生身の声で言われたことは一度もなく。むしろ過ちばかりを声高に指摘されてきた。

 もう普通なんて言葉から大幅にはみ出てしまった今だから、そんな人間だからこそ無責任に言える訳だが、間違っていようが生きていることを、生きてきたことを自分の掌から投げてしまうのは止した方がいいと思うのだ。生きようとした試みは方法がどうであれ、実に素晴らしいことではないか。恐れて当然。間違って当然。

 ただまぁ、どうせなら気持ちよく生きたいものだ。そしてどうせなら自分が選んだ結果だからと笑い飛ばせるくらいが望ましい。

 人間死ぬ時は死ぬ。転がりだした石はそうそう簡単には止まらない。残念なことに取り返しのつかないことは多く、失ってしまった物を取り返すすべは無い。だからもし、まだ先があるなら自分の好むように進むべきだと私は思う。自分の心を傷つけられるのは自分だけだと言う。心の在り方がこの世で唯一自分が干渉できるものならば、悲嘆ばかりを好むのではなく、歓喜の中へも飛び込んで楽しんだ方がいい。酸いも甘いも噛み分けたほうが色々な味が分かって、人生の深みも増そうというものだろう。