内側に籠るということ
世界には外側のルールと内側のルールがある。勿論最重要なのは内側のルールだ。そのルールが他からすればちょっと首をかしげるようなものであったとしても、やはり一番大切なことに変わりない。そしてその一番大切なルールは、世界からすれば取るに足らないもでしかない。
そこには明確な隔たりがある。
では自分のルールだけに則って行動すればいいのか。それは出来ない。集団の一部としてしか人が生きられないからだ。現代の日本に生きていると、生活を成り立たせる殆どのものに人の手が加わっていて、そうでないものを探す方が難しい。手が入っているといるということは、費用が発生しているということ。あらゆるものが交換されている。だから社会で生きるには、自分の提供できるものを差し出さなくてはいけない。提供できなければ、あるいは疎外されてしまうこともあるだろう。
自分のルールを守るには細かな修正が必要かもしれないし、時に大幅な変更が必要なこともあるかもしれない。社会と自分との間の軋轢は出来るだけ小さいものの方が生きやすいから。でも、どうしても譲れないことがあるのならば、そのまま突っ走ることも許されている。
存在しているということは良くも悪くも、可能性だ。どう作用するのか、何処まで作用するのかは事が起きてからでないと分からない。それが喜劇になるのか悲劇になるのか誰にも分からない。行動する本人にだって分からない。特に人は感情の生き物だからより予測がつかない。知性があって性格があって能力があって環境があって遺伝子に左右されて、そんな中でどうにか考えている生き物だから。何も考えずに生きられない生き物だから。集団に常に所属し、しかも振り回されがちな生き物だから。
何処からともなく発生して、何処かへと消える。良いも悪いも幅広く網羅して産まれてくる。そもそも正しいとか正しくないとか、好ましいとか好ましくないとかの概念は後付けだ。多様性で存続してきたのだとしたら、有意性のある遺伝子が主流になることはあっても統一されることはないはずだ。
自分の内側に籠ること。それはわざわざ世の中との距離を多少なりとも置く事。
ぽんと産まれてきてこの世で思考していると、どうにも自分は人に向いていないな、という想いが拭えない。常にノイズが走っている様な違和感が付きまとう。かといってこの世からお暇しようにも、痛いのは嫌だし大切なものもあるのでなかなか難しい。だから自分という肉体を箱として、手だけを伸ばすようなイメージを持つ。私は昆虫が非常に苦手なのだが、カタツムリとか。もしくは亀とか。あるいは貝とか。ちょっとずれるがアルマジロでもいいかもしれない。想像力は使いようだなと思う。
ぐだぐだ書いたが、仕事が見つかりました。パートだけどw