餅による恣意 

ゲームとか、株とか、本とか(^u^)

コロナ休み

 緊急事態宣言で突然ゴールデンウイーク明けまで時間が空いてしまった。

 感情的に考えてしまう癖があるので整理して考えると、今回の騒動は広範に大きな影響を与えているので、当然だが私だけがどうのこうのという問題でもない。多くの人が大なり小なり被った被害があるだろうと思う。そして収束する目ども立っていないと思う。

 

 父が他界してから半年。コロナウィルスとともに聞こえてくる間質性肺炎のワードを見て、罹患されている人たちが何時容体が急変するか分からないのだと容易に想像できてしまう。軽症で済む人たちですら、父の主治医から聞いた話を思い出せば、決して大したことはないとは言えないと思われる。まぁ、長い時間をかけて進行した父と全く同じではないんだろうが、如何せん肺は重要な器官であるから容体急変も十分考えられる。

 

 私達家族は父を見送れた。

 息を引き取る瞬間まで傍にいることができた。

 もし、今も父が生きていたら。私は怖くてたまらなかっただろう。

 自分の身近な人に、感染してしまえば確実に死んでしまう人がいたら。このいつ終わるとも分からない期間をどう過ごしていただろうか。

 また経済的にひっ迫した方々も多くいると思う。仕事がないということ、金銭面の不安は私自身他人事ではないからそのストレスが凄まじいことは知っている。もともと未来など誰も知らないことではあるが、見通しが不透明であれば不安も大きなものだ。仕事をしていないこと、経済的な困窮状態であることは脳にも多大な負荷がかかる。寿命を削るともどこかで聞いたことがあるくらいだ。

 

 努力が嫌いな私が資格の受験や、これからの計画などを立てていた。何分精神的に脆いので、多くの事は出来ないながらも自分なりに。それがまぁ、ほとんどおじゃんになってしまった分けだが、また新しく計画を立てていこうと思う。

 

 自分だけどうして。

 なんでこんなに上手くいかないんだろう。

 周りの人はとんとん拍子に進んでいるのに。

 どうしてこのタイミング。

 

 思うことは沢山あると思う。

 だが、まずは現状を受け止めるしかない。それも極力感情的なものを排除して。

 起こっていることをそのまま現実として受け入れ、それからどうするか、何をすればいいかを改めて考えていく。私のような人間が言えたことではないんだけれど、問題を解決していく、前進していくとはそういうことだろう。

 

 

 話は変わるが、世の中で自己責任だという言葉が躍っている。

 私は人間が毎回正しい判断、行動をとれるとは思っていない。人は多種多様で、また全てを一人で賄えるとも思っていない。そもそも間違いやすい生き物だと思っている。だからだろうか、自己責任で切り離してしまう考えに疑問を抱いてしまう。

 甘ったれた考えなのかもしれない。自分原因論で考えれば人生の問題解決が上手くいくだろうことも想像できる。しかしどうだろう。これだけの数がいる人間という生物が一人も落ちこぼれることなく、正しくギブ&テイクの関係でいられるだろうか。物事に同じような反応を返せるだろうか。だらけること間違うことを毎回律していけるだろうか。

 私には分からない。

 もしかすると共同体という枠組みは変わっていくのかもしれない。人類の選別とかいうオカルトチックな考えの通り、人間を選別してしまえばもっと世の中は上手くいくのかもしれない。

 自己責任という言葉を言うのは容易だ。それぞれ人生の苦しい時期や積み上げてきた努力があるならなおさら。だらだら歩いている人間を責める気持ちもが湧くのも当然だろう。スペックが低い人間に足を引っ張られて頭にくることもあると思う。

 しかし、人は今のところ均一ではない。

 そしてどんな結果であれ、この世に生まれた以上は死ぬまで走り続けることを要求される。表面上、自らの意思で命を放棄することは許されていないし、その為の場所や機会は設けられていない。

 当然、私は人を責めることがある。自分の尺度から外れた人間を非難する思考、また偏見を完全に捨てきることは生きている限り不可能に近いと思う。誰にとっても納得いく答えなんて出せないし、生涯同じ思考でいるなんてこともできない。自己責任だと誰かを指さすことも絶対にないなんてことは言えない。

 他所からヤジを飛ばすのは簡単で、ある種の快感すら齎す。”正しい”という感覚は一種の陶酔がある。

 だが自分が言わる側に回ったとしたら。今まさにその状態であったとしたら。

 私は酷く突き放されたと感じるだろう。

 その言葉に反発する力がなければ、ただ下を向き腐ってしまうかもしれない。

 人間は弱くも強くもある。

 私の母は自殺未遂を何度も繰り返しながらも、なかなか死ねなかった人間だ。生命として人は頑丈にできていると言えるのかもしれない。だがしかし、ある日の晩に突然死んでしまった人でもある。人間はとても脆くできているとも言えるだろう。

 私自身精神的に非常に脆弱だ。心の底から人間に向いていないと思える。何かの拍子で自死を選ぶ可能性もないとは言えない。その際に私が遺書に誰かの名前を挙げたとして、名指しされた人間は責任を負うのだろうか。

 私が名指しされたとして責任を負えるだろうか。

 それともその時ですら、相手側を指さし自己責任と言い放つことができるのだろうか。