餅による恣意 

ゲームとか、株とか、本とか(^u^)

積み上げる

 朝、夢うつつに”進んでみなければ分からない”という言葉がくるくると頭の中を回っていた。

 生きていると日々は変わり映えしないし、年齢とともに積んだ経験値のせいもあって凡その限界というものが見えてくる。歪んだ認知を抱えて、それを変えようと思い。でも、経験を伴った学習は本当に剝がれない。痛かった記憶。辛かった記憶。恐怖を伴った記憶。現実に感じる疎外感、絶望感。ただ生きている時間を消耗し、またその先で同じ恐怖を味合うことになる可能性に怯える。そのせいで精神は摩耗し、摩耗した精神から正常な判断が出来なくなり、また認知が歪んでいく。

 歪んだというのもおかしな話だと思うけれど。なにせそれはその人間の経験から生まれているから。望ましくない、それは結局のところ自身を徒に傷つけるだけでより生きにくくする。なんて自分を突き放して行動できる人間の方が少ない。経験を伴った痛みは強烈だ。火傷したことのある人間が、熱せられた薬缶を触れるか。出来ないだろう。そういうものだ。全て理屈で論理的にさばけるほど人間は強くない。

 けれど悲しいかな、それだけべったり張り付いているものを持った人間ほどその状態を脱するために多大な根気と時間を要する。固着した価値観を変えるのは、一朝一夕で出来るものではない。なのにそれをしようと向き合うことでしか、そのループから抜け出せない。

 簡単な事なのだ。原因と結果の間を繋ぐ認識を変えるだけなんだから。言葉にするだけなら。

 実際にやってみるのは驚くほど進歩が無くて苦しくて辛い。むしろ普段無意識に出力しているものを意識的に行おうとするのがまず難しい。当然当初は思っていることと違うことをやろうとするわけだから、普段右利きの人が左で字を書こうとするようなことになる。フラストレーションとストレスが溜まる。変えようとして同じことをしている自分を許せなくなるし、失望する。期待があって人は行動するはずだが、その労力に伴いう結果がなかなか得られないとどうだろうか。そうして失敗した経験をまた一つ積む。溺れている人間は体から力を抜いて水面に浮かぼうなんて、そうそう考えれるものじゃない。無茶無理を通そうとすると、必ずどこかに皺寄せがいく。

 

それでも。それでも積み上げていこうと、もう一度一から始める。過去を過去と振り切れずとも、いつかはそんな事もあったと思えると信じて。進んでみなければ進んだ先の光景は見えない。絵を描き続けたり、文章を吐き出し続ければ何かにはなる。いずれ。進んでみなければ分からないことだらけだ。何もしなくても生きているだけで何処かしらへと進んでいる。それを意識的にするかしないかだけの話。良いとか悪いとかそんな次元の話ではない。外野の評価なんて本質的には本当に何の価値もないものだ。自分にさえ正直であればいい。なんとかしなくちゃと思う自分とどれだけ向き合うか。人生なんてそんなものだ。