餅による恣意 

ゲームとか、株とか、本とか(^u^)

努力

 何かと中途半端に手をだして、未だ何処にも到達したことが無い。

 好奇心が強いとでも言えば聞こえはいいが、つまるところ理想とするLvに達するまでの努力を、私は嫌っている。

 

 自分を肯定する訳ではない。(これは希望なのかもしれないが……。なにせ人間は不幸を好むし自分が好きだ)

 私は幼少のころ、暴力と暴言を受けて育った。

 いや、致命的とは言えないのだ。比べて悪いが、もっと私より酷い目にあっている人は少なくないだろう。

 そして、私は少々変わっている。左利きを強勢されて中途半端に両ききになったり、生来、集団行動が生理的に受け付けない事も相まってか、私と多少付き合いのあった人間は、私を天の邪鬼と示し合わせたように形容した。あの仁王像に踏みつけられている、醜悪な小鬼のことである。

 成人して随分経つが、未だに肩以上に手を上げられると反射的に首がすくむし、集団行動なんてプロの方達がするものでもない限り見ると気分が悪くなる。(コンプレックスも色々と抱えている訳だが、これは今回どうでもいい)

 

 そんな私だが、幼少期から言語に興味を持っていた。日本語すらままならないままならない癖にだw

 英語が読み書きできるようになりたいとか、ポール・オースターの著書を原書で読みたいとか、ヘッセが好きだからドイツ語もいいなとか。フランス語の発音はどうにも鼻に抜けるのが苦手だとか、ロシア語は永遠に発音できるようになる気がしないとか。筆記体なんて何書いてるか分からないとかww

 言語に興味があった。ずっとずっと。方丈記の冒頭部が物凄く好きだ。般若心経が好きだ。サラリーマンや主婦、老年の方々のつくる俳句は、どうしてああも情景描写が上手く、趣深いのだろう。日本語の響きが好きだ。(怒鳴り声でなければ)英語は文法書は2週位はしたし、英単語もゲーム関連のものなら僅かだが分かる。FF11をプレイしていた時は、学校にも行かず外国の人と一緒に遊んでいた。

 

 でも、それだけだ。

 なぜか私は、分からない、理解できないと言うことが猛烈に不愉快で、直ぐに投げ出してしまう。気分が沈み、体調すら悪くなる。しかし、私から見た世の中は分からない事だらけ、出来ない事だらけ。そんなもの生きているだけで常に苦しんでいる様なものじゃないか。

 知っているのだ。それを出来る人間が自覚的か無自覚的かに係わらず、努力を継続された方たちだということを。ゴールへワープなんて誰も出来ない。どれほど天才だったとして、何もしないまま何でも出来る訳がない。近道を探している内は、遠くへなんて行けやしない事をしっている。犀のように進んでいくしかない。比べるのもほどほどにして、自己啓発に励んでばかりいないで。自分を苦しめてばかりいないで。理想に踊らされているばかりいないで。

 

 賢い人が言った。

 努力は裏切ると。私もそう思う。

 

 だが、裏切られることばかりを考えて一歩も進まない人間は、それ以前の問題なのだ。

 適切を求めているからといって、本当に適切に動けているかなんて、先に行かないと分からない。十分な努力って一体誰が教えてくれるのか。

 工夫は必要だ。見直しもいる。間違っているかもしれない。見当違いの方向に逸れかけているかもしれない。そういう懐疑は持つべきだとも思う。

 

 最近、勉強する為に本を開く前に自分に言い聞かせている。分からなくても大丈夫だと。理解できない部分があっても良いと。それより、よく本を開いたなと自分を褒めるようにしている。それはトレードの本でも文法の本でも同じだ。トレードなんて負け続きで、英語は挫折続きで、いっそ笑えるが……。

 何もかもが上手くいくことなんて、まぁ難しいだろう。

 個人の能力に差はあるし、年齢や体調、仕事やプライベートでてんてこ舞いなんてこともある。引きこもりだって、世間の見えもしない集団の差別の目に晒されて毎日がハッピーなんてものからは程遠い。色々な理由があって本人は生きているし、個別に存在するそれらは分類は出来たとしても細部は異なり、誰にも完璧な解決策は提示できない。

 だから、自分が。

 努力するのなら、自分が幸せだったり有意義だと思えるものを。

 誰でもない、自分が掲げた目標へ挑戦しよう。挫折なんて何度も繰り返してきた。適切な道なんて探している内は、遠くへなんていけない。十分か不十分かなんて倒れた場所から振り返ればいいじゃないか。どうせ生物は何処へも辿りつけない。もうこれ以上ないだろうなんて、そんな場所に大抵の人間は到達する前に寿命を迎えている。一代で出せる答えなんて高が知れているんだから。

 

 自分を大切にw

 一番大切なことだ。それだけでも、忘れなければ人は自由に生きていけるのだ。