餅による恣意 

ゲームとか、株とか、本とか(^u^)

休み

 まぁ毎日休んでるようなもんだけど、今週はノートレで。

 クラレは予想通りの感じかなぁ。上げて振るい落とす。その上げに乗らなきゃならないんだけどね。

 しかし横横か、上か下かの三択でここまで外すのって最早才能?w

 時間軸、許容できる損失、上昇した時の損切り、日経の動き、海外の動き、板読み、各種指数。取り入れようと思えばほぼ無限に取り入れられるけど、複雑化すると手がつけられなくなるのもまた真なり。

 自分の持っている玉と相談しつつ、後で振り返られる明確な基準でもってエントリー。

 

 昨日の自分は昨日で死んだわけだが、今日の自分はそいつの思考をなるべくはっきり継いでおかねばならないし。今日の自分は今日死ぬわけで、なるべく正確に次の自分に継ぐべきことをまとめておかないと遅々として進めない。なにせ前進する為には自分が何処かへ行こうとしているわけで、歩きだすには導がいり、過程にある膨大に思える課題に手をつけねばならない。命とは今この瞬間にしか明確に存在せず、今この瞬間を消費して生きているわけで。明日の自分が突然変異を起こすようなことはそうそう起こらない。

 過去にも未来にも自分は居らず、ただ今この瞬間に在るわけだが、過去と未来との縁は切れず一応一本の線として繋がっている。将来の自分に大望を押し付けた所でそれは迷惑な話だし、過去の自分を憎んだ所で最早そいつはどこにも在りはしない。

 時間だろうが世界だろうが、自分以外に手綱を持たせている以上、思った通りに進める可能性は低く、間違ったからといってそれらに責任を問うことも出来ない。

 過程がすっぽり抜けたストーリーなんてものは破綻しており、結果だけが全てなんてものは外野の言い分でしかない。かっこつけがこの世に多いだけであり、何かに誰かが取り組まねばそれは発生しえない事柄だ。

 苦労を臭わせず、また苦労を苦労とも思わず乗り越えていく人間は、非常に魅力的に見えるだけのこと。それを自分で言えるものはもっとかっこいい。

 だが、それを臆面もなく他人に押し付ける人間は非常に醜いと私は思う。資本主義の社会システムの根幹は競争で、この世の中は非常に平等に出来ているなんて事を言おうものなら、私はそいつの頭を疑う。自由に戦えるのは自分の持っている武器だけであり、人格をつくるのは環境らしい。人の意思の力の弱さは折り紙つきだ。でなければ、誰が美談を声高に語るのだろう。当たり前なら人は話題に上らせない。

 ただまぁ、何も持っていない人間は、その一番難しいと思われる意思の力に頼らざるを得ず。勝つために戦わなければならないのもまた現実。自分が腐っていくのを止めるには、自分で立ち上がるしかないわけで。今の自分の行動が、先の自分を変えるという事実に揺るぎはなく。辿り着けるか分からない場所を目指して死ぬまで歩くのが人間ならば、行先はやはり自分で決めた方がいい。地図をもったら四の五の言わずに歩きだした方が悩みが少なくて済む。

 そして出来れば道中をただただ苦しいものだけにしないように。

 さぼる時にはさぼるべきだし、逃げたいなら逃げればいい。立ち向かうだけが人生ではないし、回り道も悪くない。いくら必死に戦ったって、どれだけ怠惰に過ごしたところで世界は勝手いに回っている。一度しかない人生なら、自分を大切にするべきだ。

 真剣に取り組んでも、深刻にならないように。いずれ誰もが死ぬ。大事に抱えておくべきは自分の命だし、時には世界のあらゆる事よりも優先すべきものだ。誰にも迷惑をかけないなんて芸当は、存在してしまった時点でまぁ難しいだろうから。誰かに道を譲って死ぬよりも、自我を通した方がいい。みっともなく生にしがみつけと言っている訳じゃない。自身の命の使い方を、誰かに譲ってしまうなと、それだけのこと。

 視点を変えれば誰もが間違っていて、誰もが正解なのだから。