簡単にはいかない
何かを止めるには、代わりに別の何かをする習慣をつけないといけないらしい。例えば煙草が習慣になっている人間が禁煙しようと試みるのなら、煙草を吸う代わりに飴を食べるとか、置き換えが必要になる。
習慣は無意識か、意識的かに係わらず長い時間をかけて積み重ねられたもので、そうそう簡単に変えられるものではない。しかし置き換えるものがはっきりすれば、それは目安になるものだ。自分の習慣を振り返り、良くない部分を良いと思われるものと置き換える。
性格も間違った経験から癖付いてしまったものが多い。
癇癪を起したって状況は良くはならない。我儘を言ったって良くはならないのだ。
それは他人がとか、世間がとかではない。自分が好ましくならない。仮にそれが通ったとしても、付き合いたくない人間として距離を置かれ、孤立していってしまうからだ。人間は自由に生きられたとしても、孤独には生きられないものだ。良い関わりは、人生を楽しいものにしてくれる。そしてそんな人と繋がっていくには、やはり失敗も努力も必要だ。特に不遇な目にあって人間性を曲げてしまった者は。
自分を変えようとするのには多くの時間と、多大な労力がいる。適切な目標設定をし、小さな達成感を確実に積み上げていく必要がある。周りに合わせたって仕方ない。でも、傍若無人に振る舞っていたり、悪い習慣を持ったままでは自分が結局苦しむことになるだけだ。
私の父は、それを自らの体と、家族の人生を駄目にしながら教えてくれた。
無自覚に、周囲に悪影響を及ぼしていく。彼が悪いのではない。彼だけが悪いのではない。しかし、状況が何時まで経っても良くならず、悪化するばかりだったのは、やはり彼の責任なのだ。取れる責任は取らされるのが人生だ。
そして、取り返しのつかない重責を人に押し付けてしまうのもまた、人生だ。
周りを振り返ってみて、自分の環境を冷静に見つめれば、改善するべき所が見えてくる。そしてそれは自分の意思から取り組まねばならないことだ。気付かせてくれた人間が居れば感謝し、自ら気が付けたのなら、まだまだ成長していけるんだと一人噛みしめればいい。
自分を大切にしなければいけない。深刻になり過ぎてはいけない。
改善する道中で何度も絶望することになるだろうが、また希望を持てばいいのだ。諦めなければ絶対に人は変われる。年齢も文化も宗教も政治も、変わろうと進みだした人間を止めることは出来ない。手段はいくらでもある。何時まででも成長できる。