餅による恣意 

ゲームとか、株とか、本とか(^u^)

本日の餅の恣意

 私という人格はどこまで遺伝子に左右されているんだろう。

 普段からこんな風にどうしようもないことを考えたりする。分かっている。それは柿の実をつける木に、なぜ梅の実を生らせないんだと言うようなもので、とてもとても不毛なことだ。そんな事をするくらいなら今日買ってきたファンダメンタルの本を読んだり、お気に入りのギャグ漫画でも読んでいた方がましだろう。

 人間は、いや生物は偶然そこにあって、偶然そうなっただけのことなんだと。それに理由を探すのは本当に不毛なことなんだろうと思う。だって少しでも違っていたらそうではなかったし、現在存在している以上そうなるしかなっただけのことだから。だから間違いは無い。何かや誰かにとって不都合であるだけで、在る以上はそれは消えて無くなるまでは許容されている。誰の許可もなくとも、それはそこに在るべくしてあるだけだ。

 誰かの視点を介さなければ全てはただ流れているだけで、しかもその中の有象無象の一部で一瞬。何が悪いとか間違っていたとか、そんな小さな尺度で世界は動いてなんかいない。例えば物凄く重要なポジションの人間が死んだとして、ではそのせいで人の世が終わるなんてことはない。あるいは物凄く優秀な人間達が知恵を出し合った所で、対処のしようもない事だってある。知らず知らず世の中の色んな物事が絡み合って偶然発生した結果が、まるでそうなるべきたった一つの必然だったかのように見える。

 寿命があるのも能力や環境にバラツキがあるのも、偶然そうなっただけ。過労で死ぬ人もいれば、耐えた後に振り返って死んだ奴が弱かっただけだと言う人間もいる。同じ土俵には絶対に立てないから、相互理解は難しい。というより無理だろう。妥協点を見つけて、どうしても譲れない部分は緩衝地帯にするくらいしか出来ない。古来、男女が芯から分かりあえることなどなかったように。

 私という人格は偶然形成されたわけだけれども。好ましくないからといって返品は許されていない。しかも困ったことに私の感じる美味しいとか痛いとか怖いとか、覚醒している間に生じるさまざまな感覚や感情は自分ではほとんど変更不可能だ。精々出来ることといったら、それら反応するアンテナの感度を理性でどうにか抑えることだけ。

 それだって骨を折るような苦労だ。何せ鈍くなった所で、痛いものは痛い。同じように苦しく感じるのもやはり本当に苦しい。

 私はメンタルが非常に脆いのだが。はて。これは自分のせいだと言えるのだろうか?

 偶然の産物には違いないとは思うのだが、世には精神論が跋扈している。勿論改善の努力もせずにこれが私だからと開き直るのは、知性のある人間としてはどうかとも思うが。好きでこうなった訳じゃないと言う台詞はそれほど悪なんだろうか。こうなってくると個性とはなんだろう。誰かにとって都合のいい部分だけが個性で、そうでない部分は怠慢なのだろうか。自己嫌悪とは結局自分の心を蹴るようなもので、それを続けた所で何か改善があるのだろうか。

 人格はどこまで遺伝子に左右されるのだろう。生命にバラツキが必要だと分かっていても、そう簡単に納得できるものだろうか。優秀な遺伝子ばかり残るなら、どうして今の世が出来ているだろう。仮に今現存している優秀でない遺伝子を根こそぎ狩ってしまったとして、世の中は今よりもっと良くなっているだろうか。

 何度も繰り返すが自分の命を大切だと思えるのは自分だけだ。他から貰える愛情は余剰分で、結局自分の抱えているもだけが自分にとっての本当だから。全部が嘘だとは言わないけれど、優先順位はやはり異なる。皆自分の為に生きている。皆自分の為に発言し、行動している。人間はそんなに素晴らしくもない。世に雑多に在る生命の一つで何かに至る経過でしかなく、これが最上でないのは世を見渡してみれば分かる。みんなどこかへ向かって歩いているだけで、私の命の終わりが一つの私の区切りで在るだけで。

 私は自分の性格が難点だらけだと知っている。では間違っているのかというと、そうでないことも知っている。改善できるように自分なりに取り組んでいるつもりでもいるが、どうにも骨が折れる。