餅による恣意 

ゲームとか、株とか、本とか(^u^)

感覚

 当然だと思っていると、奪われた時の絶望感が増す。

 端から休日が少なく見積もられている場合と、後から減らされる場合と。仮に同じ日数の休みを得られたとして、ストレスが溜まりやすいのは明らかに後者だろう。最初から環境が悪いとそのことに気が付きにくいが、一度でも生活レベルを上げるとそれを下げるのは至難の業になる。

 ストレスはただの外部刺激でしかなく、それは受け取る人間の感覚で大きくも小さくもなる。タイプAと言われる分類の性格をした人間が、日常生活に支障をきたしやすいと言われるように。

 

 自分の変化を知覚して、その上で対策を立てることで軌道修正を図る必要がある。

 得られるはずのものがそうでなくなったとして、その時感じる悲しみや怒りをどうすれば軽減できるか。コップの水でよく例えられるが、半分しかないと思うのか、半分もあると思うのか。頭では半分もあると思おうとして、実のところ感情では半分しかないと望ましくない思いを抱え、見て見ぬふりをすることもあるだろう。

 

 自分の抱えている素地と、実行しようとする対策に齟齬が生じることがある。

 それは価値観や感性は生来のものと、関わってきた人間や育った環境で大きく左右されるからだと私は思う。誰もが万人受けする性格にはなれない。あまりにも自分とかけ離れた人間像を追い求めてしまえば、破滅するのは時間の問題だろう。それは自分と向き合っておらず、届きもしない幻想に必死で手を伸ばしているようなものだから。全ての問題は自分の内側に発生するもので、解法は人それぞれ。理想として、これをすれば改善されるというものはあるが、それを実行出来るか出来ないか。向き合うべきは自分であり、その時の状態に合わせて行動に移していくべきだが、生憎人間の感情には波がある。だから簡単にいくものじゃない。

 付き合わずにおれない自分というものと、どれくらい向き合っているだろうか。

 自分以外のものとは遠からず別れが来る。ただ自分とは別れがない。死んでしまうまで付き合っていくものだ。手放せないものだ。何よりも最重要であるはずなのに、それほど大事にされていないのはなぜなんだろうか。