餅による恣意 

ゲームとか、株とか、本とか(^u^)

梅の盆栽

 葉狩とかやってみたけど、やり方が悪いのか上手い事新しい芽が出ない。

 勉強不足なのは百も承知だが、後回しになってしまって、、、。

 

 病気の恐れがあるからあまり大きな枝は切りたくなかったが、今日いくつか試してみた。

 剪定ばさみの消毒を忘れていたのが気がかりだ。鹿児島紅梅の方が挿し木が歪な分、全体の形がおかしくなりやすくて難しい。来年も花を咲かせてくれればいいんだけど。大雑把だけど鉢の成長記録とか残してて、それを見返して試行錯誤してみる。

 それと私が一番最初から欲しいと思っていた白い五枚花弁の梅だけど、まだ出会えていない。縁があればいずれ。

 

 今は父が残した大量の鉢を処分している最中で、何かを手元に置くって大変な事なんだと痛感する。責任を持ってなんて言うけど、そんなもの努力目標でしかなくて、絶対に最後まで面倒見るなんて誰にもできない。どんな人間でも絶対途中でサヨナラしなくてはいけなくなる。一鉢だけ残したサンスベリアを見ていて、自分ももしこのままちゃんと鉢を枯らさずに手入れし続けられたとして、最後は遺していくんだなと。

 だからもうこのまま理想の白い梅の鉢と出会わなくてもいいとも思う。正直なところ植え替えをした土にだって頭を悩ましているんだから。でも人間は欲を持っていて、何も持たないなんて出来ないから。

 こんな事をグズグズ考えるのなんて私くらいかもしれないが、疲労しながらも考え続けるんだろうと思う。

感覚

 当然だと思っていると、奪われた時の絶望感が増す。

 端から休日が少なく見積もられている場合と、後から減らされる場合と。仮に同じ日数の休みを得られたとして、ストレスが溜まりやすいのは明らかに後者だろう。最初から環境が悪いとそのことに気が付きにくいが、一度でも生活レベルを上げるとそれを下げるのは至難の業になる。

 ストレスはただの外部刺激でしかなく、それは受け取る人間の感覚で大きくも小さくもなる。タイプAと言われる分類の性格をした人間が、日常生活に支障をきたしやすいと言われるように。

 

 自分の変化を知覚して、その上で対策を立てることで軌道修正を図る必要がある。

 得られるはずのものがそうでなくなったとして、その時感じる悲しみや怒りをどうすれば軽減できるか。コップの水でよく例えられるが、半分しかないと思うのか、半分もあると思うのか。頭では半分もあると思おうとして、実のところ感情では半分しかないと望ましくない思いを抱え、見て見ぬふりをすることもあるだろう。

 

 自分の抱えている素地と、実行しようとする対策に齟齬が生じることがある。

 それは価値観や感性は生来のものと、関わってきた人間や育った環境で大きく左右されるからだと私は思う。誰もが万人受けする性格にはなれない。あまりにも自分とかけ離れた人間像を追い求めてしまえば、破滅するのは時間の問題だろう。それは自分と向き合っておらず、届きもしない幻想に必死で手を伸ばしているようなものだから。全ての問題は自分の内側に発生するもので、解法は人それぞれ。理想として、これをすれば改善されるというものはあるが、それを実行出来るか出来ないか。向き合うべきは自分であり、その時の状態に合わせて行動に移していくべきだが、生憎人間の感情には波がある。だから簡単にいくものじゃない。

 付き合わずにおれない自分というものと、どれくらい向き合っているだろうか。

 自分以外のものとは遠からず別れが来る。ただ自分とは別れがない。死んでしまうまで付き合っていくものだ。手放せないものだ。何よりも最重要であるはずなのに、それほど大事にされていないのはなぜなんだろうか。

時間が空いた

 久しぶりに更新する。

 ちょっと勉強していることがあって、ゲームの時間も取ろうと思うと後回しになってしまって。勉強していることが役に立つのかとか、大分危うくなってきてるんだけど何もしないよりましだろうと考えている。

 

 朝目が覚めてまだ生きているんだなって思う。

 どうして生きているのか不思議でたまらない。

 これからもそうやって生きているのかなと思う。

 そう思わなくなったときには死んでいるんだろう。

 

 人より容量が悪くて、そもそも性格がネガティブだから常々余裕がない。

 ゲームしていてもゲームしていていいのかと疑問で頭が痛くなる。好き勝手に生きようと思う反面、その反対の生き方をしている気がしてやまない。義務感に苛まれて、そのくせそれを果たそうともせず。生まれて初めて位で努力をして、自分の能力の低さに愕然とする。

 もともと努力が嫌いだから、動機がネガティブなぶん能力にマイナス補正が付く。

 株価のボラがでかくなって、リセッションかなとか考える。自分が今やっていることがそのせいで泡になってしまうんじゃないだろうかとか。

 景気が悪くなったって、コロナウィルスが世界を席巻したからって、目が覚めたら生きるための活動をせざるを得ない。毎年インフルエンザみたいにコロナウィルスが流行るようになったって、それよりもっと毒性が強かったり感染力が強いウィルスが出たって、世界が戦争の渦に沈んでいったって、目が覚めたら人はその日を生きるだけ。

 

 折角の休日だからってリフレッシュしたいのに、勉強をしなくていいんだろうかとか罪悪感がにょきにょき生えてきて、散らかった部屋や溜まった書類とかが気になって上の空になる。

 

 こんな自分が心底嫌で、なんとか変えようと思考する。

 堂々巡りに見えるけど、そうやってその日を生きて。夜眠って。また朝が来る

 いつか振り返ったとき、そんな時期もあったのかと思えるだろうか。

 

 少しでも良くなるように。いい方向に行けるように。自分とだけ戦って世の物事をちょっと俯瞰で見れるようになったなら。必ず、もう少しくらいはきっと、息がしやすくなるはずだと信じている。

 

 

嫌な事

 下らないと思うことがあって、しかしそれが社会では当然のことで。世界の仕組みに馬鹿らしくなって挙句にはイライラしてくる。下らないと思う。それをする意味も利点も分からない。でもそれが必要なんだからやらなくちゃいけない。でもやりたくない。

 一度躓くとなかなか立ち直れない。納得いかないことを納得いった風に振舞えない。

 それで疲労を溜め込んでしまって、他の事にすら支障が出てしまう。

 

 真面目なんだろうなと思う。適当でもいいのに。その場しのぎでもいいのに。

 気楽になれれば思いつくことも増えるはずだ。嫌々やってたら余計に辛くなるだけだ。

 分かっているのに、実際そうすることがなんでこんなに難しいんだろうか。

真面目

 真面目に生きなくていいらしい。むしろ真面目に生きるとまずいことがあるようだ。

 さぼったりずるしたりすることは必要なのかもしれない。まぁ限度があるんだろうけど。

 

 肩ひじ張って精一杯やって、その上で成し遂げられなかった自分を叱るのは確かに行き過ぎている気がする。頑張ったじゃないかと、自分ではない人には励ましの言葉を送れるのに。

 あれもこれもすれば将来起こるかもしれない何かを回避できるのかもしれないけれど、そんなに物事がうまくいくだろうか。あれもこれもできずにそうして自分を責めてしまって、結局何一つ片付かなかったのなら自尊心が傷つくだけだ。真剣に人生を考えてその無意味さに潰されそうになるくらいなら、そもそもそんな考えを持たないほうがいい。代わりに昼寝でも読書でもゲームでもしていたほうがきっと楽しいだろう。集団の中で他者と比べて自分の能力の低さに落ち込むなら、比べないほうがいいのだ。もとより他所の芝は青く見えるものなんだから。

 仕事から帰って一日を振り返り、あれが駄目だったこれが駄目だったとバツばかりを付けていれば、そのツケが人生から色を奪ってしまうことになる。過剰な反省は自分を傷つけるだけだ。自己評価が低ければ振る舞いも卑屈になる。

 真面目に生きるのは悪いことじゃない。でも真面目に生きて自身が潰れてしまうなら、それは悲しい生き方だ。

 不思議なもので肩の力を抜くことすら勉強しなければ難しい。自分に向き合って初めて、力んでしまっていることに気が付ける。

握力

 父さんがどんどん死に向かっているとき、手を握ってみたら思いのほか強い力で握り返したことがあった。目や表情が生者のそれより濁りつつあったころだった。

 筋肉が衰えていてもまだ強かった。特に会話はなかったと思う。

 最近より沢山父が死ぬ前の動作を思い出すようになった。内出血が増えていく手の甲や手首。だんだんと表情が変わらなくなって、会話が減っていった。手つきもなにもかもが危うくなって、病気が分かる前の姿を忘れてしまいそうなほど急激に変わっていった。

 思い出すことに何か意味があるのか。

 感情の整理の途中なのか。そうだったらいいのだけれど。

明日から新しい環境

 今年の頭から新しい環境に変わる。

 人間関係とか失敗したくない、とかじゃなくて。どんな風になってもあまり落ち込んだりしないようにしようくらいで考えている。

 思考はいつも過去に飛んだり未来に飛んだりと忙しなく、浮かぶものの8割くらいはネガティブなもので、それに振り回されていれば自分が何処に居て何をしようとしているのか。向かう方向がどちらなのか、簡単に見失ってしまう。今に考えを留めるのは存外難しい。料理をしていても頭は他の事を考えていたりする。

 何をして何をしないか。目標がなんで、どうすればそこに辿り着けるのか。

 なんだか季節の節目があっさりしていて、特に思うところがなかった一年だった。やはり何事も楽しもうとする意思がないと、どんなものでもつまらなくなってしまうのかもしれない。

 なので今年やってみることは、選択の意識化と瞑想にしようと決めた。

 

 最近気が付いたんだけれど、どうやら人間は悪いことを好むようだ。犯罪とかではなく、それをすると良いことがあると分かっていてもそれをしない。それをすると悪いことが起こるかもしれないのにやってしまう。 

 例えば、腰が悪いとしたら軽いストレッチをすれば痛みを軽減できるのに面倒くさがる。本を読めば生活が生き生きとしてくると言われても読まない。お菓子の食べ過ぎはよろしくないと言われても食べ過ぎてしまう。運動不足が脳にも体にも悪いと知っていても、どうにもそんな気にならない。面倒な書類なんかは溜め込むと後々痛い目に見ると分かっていても後回しにする。整理整頓すれば作業が楽になるのに、なんだか家が片付かない。

 時間以外に掛かるものがほとんどなく、ただ意志さえあればすぐさま手を付けられる事を避けるのが人間らしい。

 それがどれ程人生に良い影響を与えてくれると分かっていても。自分のために時間を作って、自分に向き合うことをすれば人生はもっと好転するとしても。人はそれをしないのだ。