餅による恣意 

ゲームとか、株とか、本とか(^u^)

初めてのイングリッシュローズ

 前々から品種不明のミニバラを育てていたのだが、今回初めてイングリッシュローズに挑戦することにした。色々調べるとオリビアローズオースチンが引っ掛かり、耐病性もあり鉢で管理できそうだったので購入。今朝、早速虫に食われていたので見える範囲で駆除した。ミニバラはとても薔薇らしい濃い真紅なので、オリビアのピンクが見れることを楽しみにしている。

 数年間育てている枝垂れ梅の剪定時期をミスし丸裸にしてしまったショックから魘され、仕事や人間関係のストレスをしこたま溜め込みとうとう花粉症だけでなく蕁麻疹まで発病してしまうという状態での決断だった。

 どうしてそのタイミングだったのか。スペースも限られ色々と制限があるなかで、それでも購入したのは自分で決めるということが難しくなっていたからだ。休日に散歩に出かけたとき、私は自分はどこにも行けないと強く感じる出来事があった。それは他人からすれば笑ってしまえるくらいの些細な事なんだろうが、酷く酷く疲れて絶望した。それで散歩を切り上げて帰宅。それから一時間もしない内に体のあちこちが痒くなり搔きむしった。

 頭、腕、腿、背中、腹。次々あちこちが異様に痒くなり、内出血するほど掻きむしってしまった。蕁麻疹なんて記憶する限りにおいてなったことが無かったのでかなり驚いた。検索してらしい症状が蕁麻疹だっただけで、もしかすると他に何かあるかもしれないが、花粉症にともらった薬を飲むとしばらくして落ち着いた。二日間。結構な地獄に感じた。また症状が出ないかと思うと怖い。

 自分で決めることがこんなにも苦しいことなのかと思う。全て投げ出したいと思った。欲しいものや、やりたい事があってもそれをすることが難しいこともある。小さなことですらも誰かに決めてもらおうとする自分が嫌になる。

 虫は大嫌いだが植物はいい。好きだからやろうと思う。育てることは好きだ。小さなことからやろうと思う。山アジサイの繊細さも好きだったけれど、ずっとずっと薔薇に憧れがあったから。枯れてもいいから挑戦しようと思う。

 桜の時期に父が連れて行ってくれた場所がある。たまたま通ったというか、そこが目的地ではなかった。あったからよっただけ。

 田舎の山と畑と、過疎が静かに進行しているように感じる場所だった。錆びた金属の橋。整備されていたが、手入れはほとんどされていなかった。白いコンクリートと水害の名残。壊れたベンチ。大量の鹿の糞。水溜まりにうじゃうじゃいる大きいおたまじゃくし。草はあるていど刈られている。

 私は散策中、溝にスマホを落としてしまった。イヤホンジャックが死んでしまったが、電源が付いたのでよしとした。静かな場所だった。桜が植えられていて、錆びた橋と妙にマッチしていた。

 春になると、そこに行きたいと思う。桜を見るとその光景を思い出す。

 特段素晴らしい景色だったのかといわれるとそうではない。私はその光景をみて春の息吹を感じたわけじゃない。なんだか静止画のように思えた。静かに風化していく写真ように。妹は新しい場所に行こうとする。私は過去行った場所に行きたいと思う。対極的だ。

 桜の時期は短いからそこに行けるのか分からないが、まぁそれもいいのかもしれない。

強すぎる痛み

 二月中旬、かなりの痛みに襲われて心身ともに生きる気力を損なってしまうくらいだった。なぜこんなに痛いのに死んでないのかが不思議で、つまりそれ以上の痛みがあるということで、そんなことが頭から離れなくなった。痛みの基準なんて分からないから、自分が大袈裟に言っているだけなのかとも思うと情けなかった。痛みまで他人と比較しようとする自分が嫌だった。

 それから今度は花粉症になった。まぁ病院で検査をしてもらって結果が出たということだが。以前から多少はあっただろう症状が突然酷くなり、その日は仕事を早退させてもらって病院に行った。薬を処方してもらい劇的に状態は良くなったのだが、それでも毎年こんな目に合うのかと思うと気分は沈む。

 腰痛といつまでも本調子に戻らない胃腸に苦しんでいる。

 トレードは珍しく調子が良かったのだがネガティブニュースで利益は飛んでしまった。

 瞑想もフラッシュバックが起きてまともに出来ず、それでも続けようとしたが腹痛から一端断念。早朝の勉強も中断され、集中することがまた難しくなった。友人からネガティブな事を言いすぎだと注意される。注意してくれる友人がいてくれた事がありがたく、同時に迷惑をかけていることに落ち込んだ。

 以前からずっとネガティブな事を言わないようにしようとしているのに、それが異様に難しい。だから他の事に意識をやろうと本を読んだり手帳に書き込んだりトレードの勉強をして回避しようとしたら、今度は思いつめた顔をしていると言われて凹んだ。

 確かに思いつめてはいる。なんでこんなにもと思う。

 だが沈みきったら後は浮上するだけだ。沈んだままでいられない。よかれあしかれ。一年とかで考えたら年が明けてからの自身の状態が長く感じる。だがまだ数年、数十年と生きるのなら、私の今のこの状態は一瞬の事だ。現に私は今ブログを更新するくらいには回復している。

 生きる気力がほぼ尽きてしまってから異様に物忘れをするようになった。体調はより悪くなり、痛みから体を屈めるものだから姿勢も当然悪くなった。小さなことがとても大きな事に思え、絶望が深くなるばかり。

 

 そんな私を支えようとしてくれる人がいることが、嫌だった。なぜと、思うのだ。自分のような人間といても損しかしないだろうにと。最近ではこんな人間が周囲に居たら距離をとれ、なんて動画が流行るくらいだ。内容を見ても納得がいく。だから自分が居ないほうがいいだろうとぼんやりと思うのだ。その癖、見捨てられる事を考えてぞっとする。自分を嫌いになる要素には事欠かない。

 でも何度も書いているが、そこにずっとは留まれない。留まろうとしても出来ない。やっぱり周囲の大切な人と楽しく暮らしたいし、望む未来に向かって進みたい。今までもどうにかこうにか生きてきた。その間気分が浮上することも沈むこともあった。いずれ助けてもらった恩を返したい。支えてもらった分以上、支えられる人になりたい。自分の持っている体質、思考、偏見。全部投げ出したくなるが、受け入れたり立ち向かっていく他ない。トレードでも生活でも成長していきたい。再スタートを何度もしている。行きつ戻りつ、自分では何が変わったのか全く分からない。だが変化は当然起こっている。

時間経過

 何にもないのに生きている状態が辛い時がある。

 そういう時に限って嫌なことが立て続けに起こりがち。そんな時は自分がそういう状態なんだと自覚する。ネガティブな事を言うし、物や人に八つ当たりだってする。努力を放棄して投げやりになるし。何もかもが面倒くさくてだるく感じる。どんなものを見ても退屈に感じるしそんな自分を責める。卑怯な自分に嫌気がさして死にたいと口にする。瞑想をしたってフラッシュバックで全然集中できない。周りの人間にイライラする。

 

 ただそれを一時的な状態なんだとだけ、しっかり心に留めておく。

 その間に人が離れていってもいい。別に聖人なわけじゃないんだから。

 仮に衝動的に死のうとしてもいい。死んだら死んだだけだし。生きていればいずれ浮上するだけ。

 

 寝て起きてを繰り返していたら、人の心も体も変わっていく。なるようになる。

 それでまた何かやりたくなったらやればいい。努力をもう一度やろうと思うならすればいい。それだけ。

 無理矢理真面目に生きない。真面目なんてくそくらえだと思う。

 自分が屑な事を受け入れる。変に我慢しない。

 

 どんなに綺麗な景色を見ても、どんなに楽しい映画を見ても絶望がべったりくっついて離れないときがある。

 美味しいものを食べても虚しいだけのときがある。

 そんなものだ。そういう要素をもった一個体である。ただそれだけ。

 絶対だと言い切れるものがある。同じ状態を維持できないということ。良くも悪くも。それを忘れなければいい。

紅梅が咲いた

 今日とうとう紅梅が一輪咲いた。だんだん日も長くなってきてそれにつれて蕾もどんどん膨らんでいたから今日あたりはと思っていたが。毎年毎年思うのはやはり梅は素晴らしい。今年こそは白梅を。それにミニトマトやミント。青じそをまた育ててみたい。そんな風に梅は私をわくわくさせてくれる。春を知らせてくれる。

 観葉植物やエアプランツ(新入り二株)また果樹も大好きだ。寄せ植えだってしてみたいし、桜の開花は迫力がある。野菜だって魅力的だ。

 でも一等好きなのはやはり梅。ある日仕事帰りに、あぁなんてこんなに美しいんだとしみじみ思った。あの時から私の人生には植物が必要なんだと深く理解した。もうそのころには乱視も進んでいてくっきり見えたわけでもないのに、まるで宇宙を感じた。今振り返ってみても危ない奴だ。

 植物は素晴らしい。多種多様で様々な環境に適合し、花を咲かせ実をつけ、また葉っぱの形で心を癒してくれる。それだけでなく容赦なく強い。人の事情なんて無視して、ひたすら生きることに一直線で我慢強い。

 こんな時期だけれど十分気を付けて梅を鑑賞しに行くつもりだ。

 

 エアプランツの新入りは100均で購入したイオナンタとフクシー。ぜひ、花を咲かせるまでいきたいところだ。

 

近場に出来たガーデニングのお店

 前々から気になっていたガーデニングショップに休日に行ってみた。

 1~2年前だったか。できたお店で行きたい行きたいと思いつつも足が伸びなかった。それがリニューアルオープンしたようで是非とも見にいくべきだと決心し。それを糧に仕事を乗り切った一週間。運よく天気は快晴でそれはもう行く前からテンションが上がりまくり。そんなに大きな店舗じゃないけど、だからこそそこにしかないアイテムがあるんだとわくわくが止まらない。

 目的はヘデラを植えるための小さめの鉢を探しに。ついでにガジュマルの方の鉢もあればと思って向かった。当然ホームセンターほどの品ぞろえなんてあるはずもなく、しかしそんな所では入手が難しいアイテムが並んでいて大変満足だった。花苗はラックスとかパンジービオラがあったが状態はそんなに良くは見えなかった。あとガジュマルがかなり沢山置かれていた。ただ店舗内の温室にはガジュマル以外に見たこともない観葉植物があってもうストレートに見るだけで幸せであった。なんだこれ状態である。

 看板猫ちゃんもいて、もう嬉しさが溢れる。味のある焼き物の鉢を大変気に入って購入。小ぶりのアンスリウムにも目が留まったけれど、、。あまり増やしても仕方ないとそれは断念した。

 

 本当は寄せ植えにだって挑戦したい。でも家のベランダにはハトが飛んでくるから追い払うのも必至で、あまり鉢を密集させておくと巣を作ろうとしてしまうのだ。また室外機の温風なんかがあたってしまうので余計に沢山置くことはできない。毎回書いているが土の処理も大変なのだ。

 まぁでも限られた空間の中で楽しむことも園芸の醍醐味なので気落ちしないで楽しんでいこうと思う。

 私だけかもしれないが、園芸はそんなにお金のかかる趣味だなんて思っていなかった。でも今は思う。普通に出費はある。しかもやりようによっては他の趣味と同様天井知らずなんだと。園芸のために家を考える人もいるくらいだし、奥の深い事である。限られたスペースと時間とお金の範囲で自分なりに工夫して楽しめたら、一生モノの楽しみであることは間違いない。

試みること

 自分の中には不安や不満が渦巻いていて、それを誰かと比較できるものではないんだが、私はかなり重いほうだと見ている。吹っ切れるということができない。ゲームで一日を潰したとしてそれを後悔しないならばそれでいいのだ。なのに私はいつも心のどこかで納得がいかなくて苦しんでいる。

 現状に不満を持つから成長していけるのだと思っていたが、それはどうなのかと最近考えるようになった。感情が先に走っている時点で、人は同じことを繰り返し続けてしまうのではないか。感情的に悩み後悔することで、行動を先延ばしにしたり避けていたりするのではないか。

 自己を見つめることで自分と距離をとれる。

 感情的になっていて観察はできない。一歩引いた距離から記録を残していく。すると感情ありきでそんなことができないことに気が付く。

 感情は波のようなもので、ノイズのようなもので、刺激そのものだ。自身を責めることや他者を攻撃することは問題解決からは程遠い行動。ただ見るべきものから視線をそらしているだけにすぎず、だからこそ根本的な改善に繋がっていかない。

 それでいいと思えることがないのは苦しいことだ。正解を求めていると不満も不安もこんこんと湧いてくる。どうして自分を許してあげられないのだろうか。ぴんぴんに張った糸をどうにかしようとしても傷んでしまうだけだ。最悪切れる。

 自分を変えようとすることはいいことだと思う。でももっと力を抜いてできないのだろうか。試みることをもっと気楽に始めるにはどうすればいいのか。ほったらかしたって少しは変わっていっているものなのだから、頑固な部分も当然あるし、それを憎々しく思わなくたっていいのに。ちょっと力を抜いてやってみることができればと思う。