餅による恣意 

ゲームとか、株とか、本とか(^u^)

体調

 精神的に参ってると、肉体的にも弱っている。

 メンタルがとてもじゃないが強い方じゃないから、特に症状が出やすい。アドラー曰く、理屈を際限なく生み出す状態。したくないこと、逃避を正当化する為に表れる病気の数々。これが事実なのかどうかを100%明らかにすることは出来ないけれど。例えば腹痛を上げたとして、特定の場面にだけお腹が痛くなりやすいとか。その状況から離れると治まるなら、肉体な症状より精神からくるものだと思える。

 今時原因がはっきりしないことは珍しいことじゃない。皆何かしらストレスを溜めているし、命のSOSであることに変わりは無い。葛藤は誰にだってあるし、大なり小なり誰だって責務に追われている。

 例えば生きることとか。

 望んでなくても生まれて、死にたくなくても死んでいく。肉体は精神と密接に結びついていて、どちらかが欠けていたとしても補い合う。生命の神秘。しぶとさと弱さが内在していて、明日を保証するものはいつだって無い。

 健康でいるためには適度なストレスが必要である。しかしその基準は共通するものじゃない。誰かからすれば仮病。誰かからすれば病。人それぞれ。生物それぞれの事情がある。好みな環境がある。

 肉体的負荷も精神的負荷も節度を持ったものであれば、心も体もより健康にしていく。そして過剰な負荷はその逆で崩壊させる。

 体調はその日の重要な基準。元気な時には散歩に行き。頭痛が酷い時にはお茶でも入れてのんびり本を読んだり、なるべく安静にする。絶好調な時なら、普段よりバリバリ働いたり思い切り体を動かすのもいい。それだけで人間、健康に生きていけるだろうに。

 現代は消耗戦だ。肉体を削り、精神を削る。知らない間にマルチタスクに陥って右を見ながら左を見ようとする。そんなこと誰でも出来ることじゃない。時間に追われて、もんもんと眠れない夜に明日の事を考える。人生を考える。それで前向きな思考が出来るのなら、その人間の潜在能力はすさまじい。大抵の人間は無気力になり、惰性で人生を全うするまで耐えることになる。ラットレースだと誰かが言った。その通りだと思う。

 幸福になる権利は誰にでもある。不幸になる権利も誰にでもある。「哲学思考」(著・平原 卓)本質観取が大事だといった。その通りだ。晴れやかな気分で自分の選択を全うする。自身の中を探り、それに納得し、それに向かって日々前進する。完全な理解ではなく、了解することでそれぞれが生きていけるのなら、そんなに素晴らしいことはない。しかし理想は夢のようなものだ。

 例え耳を傾ける者が誰一人いないとしても、本質観取をするべきなのは晴れやかに生きる為だ。誰の了解も得られずとも、自分の了解を得られればいい。晴れやかに生きる為には自身の納得以外何が必要なんだろうか?

 自分をこそ大事にするべきだ。体調は貴重なシグナル。ピンと張ったまま糸はいずれ切れてしまう。身の丈を知り、行先を決め、黙々と足を進める。無視するべきは外野の声で、大切にするべきは内側の声。大きく聞こえるからといって、小さな声を無視するべきじゃない。

 コマンドは自分を大切にw