餅による恣意 

ゲームとか、株とか、本とか(^u^)

硬くなるか薄くなるか

 決められないということも、一つの強い個性だ。父を見ているとそう思う。

 自分から何かを決めたり出来ず、しかし周囲の人間の振る舞いに何時も不満があるのだ。例えば、何を食べたいかを聞き、何でもいいと言われ、提供されたものを見て顔をしかめたり小言を溢す。自分の意に沿わぬ他人の言動にいちいち不快感を示す。

 ずっと決めたくなかったんだろう。環境の変化とか、責任とか。後々どうなるか以上に何とかなっている現状の継続が父にとっての平穏だ。自分だけの裁量で生きられればそれで十全。そもそも同意を求めているだけで、人の意見など欲していない。

 でもそれを責めることをするのは私には出来ない。

 結果巻き込まれてしまったとしても。思考の形式は人それぞれで、何を恐れるかも人それぞれ。責任を持ってとか、周りに迷惑をかけるなとかはそもそも無理な話だ。責任を持とうと思っても無理なことは多々ある。

 例えば私は産まれてきたくは全く無かったし、一人間として欠陥だらけだが、それは産んでみてからしか分からなかったことだ。人は気の遠くなりそうな数の精子の中から偶然発生したに過ぎない。産まれなかった可能性の中に、産んでくれてありがとうと言えた人間だっていたはずだ。まぁもともと私達の一族はメンタルが弱い人間が多いみたいだからそれ程期待できないけれど。だから病気やガンやらで短命らしい。私にとってはそれ位が丁度いいやw

 

 人は誰でも思想を持っている。それは硬くなったり薄くなったりする。柔くより薄くなるといったのは私の中でそんなイメージだからだ。例えば薄い人は良くも悪くも周囲と同調しやすい。硬い人は混ざらないから一見強そうに見えるけれど、がんがんぶつかりまくるから敵対しやすいし壊れやすい。

 父は年々硬くなっている。家族ともがんがんぶつかる。色々とこっちが推測しなきゃいけないから疲れるし、本人の望んでいないことだと嫌な顔をされるから正直なところ辛い。こんなに気を使っているのになんて思うこともかなりある。

 しかし、こっちも相手に我慢させている部分があるから責められない。そう在るものやそうなってしまったものに、なんでなんだと癇癪をおこしてもお互いに疲れるだけだ。あげく結局のところ変えられるのは自分の受け取り方や行動だけで、喉が枯れるほど怒鳴った所で通じたかどうかは甚だ怪しい。

 生きるのは大変だ。自分の能力以上だと思えるような問題が山積しているようで不安が拭えない。意見を言わなきゃ黙殺されるし、言ったらいったで角が立つ。不和はあちこちで常に潜んでいるし、なまじ感覚が周りとずれている分地雷を踏み抜く事も多い。ネガティブな自分の性格が嫌で嫌で堪らなくとも、変えるのは非常に難しく、あれも駄目だったこれも駄目だったと反省を続ければ心が折れるのも時間の問題だろう。

 母の時もそうだったが、父の時も同じことを思う。さっさと死んでしまった方が苦しまずにすむんじゃないかと。それを知っているのは本人だけで私の分かることではなく、父の咳き込む音をずっとずっと聞いている。

 苦しそうだなと思うが、生きていてほしいとも思う。でも死んだ方が楽ではないかとも思い、父が出すだろう答えがなんだったのかは私には永遠に分からないんだろう。何せそれは死んだ本人のみぞ知ることだから。