餅による恣意 

ゲームとか、株とか、本とか(^u^)

思うようにいかない

 思うようにいかないのが人生だと知ってはいても、納得できない不思議。

 物心ついたころからずっと不安を感じていた。歳を経るごとに死にたいと思うようになった。それでも産まれてきたから生きろと言われ、死ぬ勇気もなくだらだらと生きてきた。正直なところ父を憎む気持ちはある。どうして育てきれもしないのに子供を作ったりしたのかと。私は父の生きている間の寂しさを紛らわせたり、世話をするために産まれたのかと絶望することも今でもある。

 結局父には父の言い分があり、私には私の言い分があるだけだ。

 どちらが悪いとも言えないし、つまりはどちらも悪いのだ。

 父が生きている間に溜めこんだ物は、本人でない私が片付ける他ない。本人でさえ把握していないものを私が処理しなくてはいけないのだ。沢山の書類。使えるかどうか分からないもの。失効したかどうか分からない契約書。沢山の生きてきた痕跡があって、それに手をつけるのは一苦労なのだ。更に死亡した時の諸々の手続きと、私が死んでいない以上それ以降も生きるためにやらなけらばならない沢山の事がある。

 

 悲観的になってはいけない。同情を誘うような行動をとってはいけない。

 なぜならそれをしても現状は何も変わらないからだ。どうにかする為に行動しなくてはいけないし、他人を当てにしてはいけない。

 期待してはいけないのだ。誰かがどうにかしてくれるなんて思うから疲れていく。

 自分一人で頑張って他の協力を得られない時、絶望はより深くなっていく。それは他人に期待しているからだ。酷い扱いを受けた時、悲しくなるのは良く見られたいという他人の視点があるからだ。自分の人生に集中しなくてはいけないのは、他人に周囲に価値や判断を委ねてしまった時、人生はより制御不能となるから。

 もともと思うようにはいかないものが、より自分の手を離れていく。

 それぞれには、それぞれの言い分がある。そこに優劣なんて無い。在るのは自分の価値観と、他人視点の評価があるだけだ。

 

 自分を大切にしなくてはいけない。

 生きるにしても、死ぬにしてもそれは間違ったことじゃない。そもそも評価すべきことでもないんだから。自分の事だけに集中して、自分と戦うのが人生だと私は思う。

 生きる事を喜劇だと感じるならそれはそうであるし、悲劇であると思う者の前ではその姿をとるもの。

 不思議なもので気分が良い時に水を指すような事は良く起こる。世の中は勧善懲悪ではないし、むしろ理不尽なものだ。因果応報といっても、はっきりとした法則なんて誰も証明できない。出る杭は叩かれるし、蔭口は日夜どこかで囁かれている。

 

 気持ちよく生きるには、生き切るには何が一番大切なのだろうか。そう考えるとやはり自分しかない。

 何をするのか、何を思うのか。自分の人生を主体的に生きることが幸福なのだと思うのだ。

 駄目だったとしてもそれでいい。世界からすれば一瞬の飛沫のような命でしかない。方丈記の冒頭を思い出す。大した命ではない。消耗されていく一つの可能性なだけだ。それぞれが自分だけのゴールに向かって前進していく。そしてやがては死に至る。ただのサイクルでしかなく、偶然の連続なのだが、不思議と人の思考というフィルターを通してみるとまるで必然のように見えるだけ。私達に出来ることは自分の関われる範囲で変えられるものを変えようと努力することだけだ。