餅による恣意 

ゲームとか、株とか、本とか(^u^)

親というもの

 そう遠くないうちに死んでしまう父に聞いてみた。もう自分が死ぬだろう時期が近づいてもなお、自身の死後も私たちに生きていてほしいのかと。

 なんでそんな事を聞いたのかというと、関与できる範囲を外れてしまえば正直どうでもいいことなのではないかと思ったのだ。

 元気に生きていようが不幸に生きていようが、あるいは死んでしまおうがそれを知るすべもなく。生きている時と違って、もはや共有できるものもなくなってしまうのだ。先の読めない本を持っていても仕方がない。

 

 それでも生きていてほしいという。幸せに生きていってほしいという。

 私には分からない。なにか違和感を持ったまま、なんで生きているんだろうという疑問を持ったまま生きてきて。生きている理由の根本に両親がいた。その両親はもう直ぐ何処かへと去ってしまって。

 だったらもう私の役目は終わりだろうとも思うのだ。二人の生きた舞台の端役として存在していたのなら、その中心を成していた者達が終わるというのなら、そこで同じく終わることが正しいのではないかと。

 

 ずっと考えている。行動はできていない。

 これからどうやって生きていくのか。どうして生きていくのか。その動機が見つからない。

 

 睡眠不足もあって正常な思考が出来ていないのかもしれない。細切れに短くしか眠れていないからか。父は目を離すと直ぐに高熱を出す。挙句本人の自覚症状が限りなく薄いから、こっちが先回りして考えてやらないといけない。死にかけている人間は体温調節すらままならないし、あちこちにすぐ異常が出るから。せめて寒いとか暑いとか、それくらい言ってくれれば楽なんだろうがそれもない。秋になって朝晩の気温差が大きいし、症状が進行しているからか解熱剤の効く時間も短くなってきた気がする。

 父の飲む薬は治療のための薬ではない。眠ったってたいして体調は改善されない。いくら栄養を摂取しても癌細胞が持っていく。だから、全てが本人が少しでも苦しまなくていいように緩和するためのものだ。

 

 もう少し時間があるだろうか。

 その内に私はなんとか答えを出さなくてはいけない。それが間違っていたとしても、後で修正をすればいいだけだ。ただ、何かしらの入れ替えが必要だ。中心にあったものが無くなるのだから、代わりに何かを据えなければならない。生きるには理由が必要だ。少なくとも私には。

 人間は厄介だ。いや、私の性質がやっかいだといったほうが正しいだろうか。

 兄弟がいてくれてよかった。そうでないならさっさと死んでいただろう。でもそれだけでは生きられそうもない。自分と向き合わなくてはならないし。ここで向き合えないのなら、そう遠くないうちに破滅するのは目に見えている。

 

 しかし、親というものは不思議だ。

 こんな欠陥だらけの人間に生きていてほしいなんて言うんだから。