即位の礼
今日は父さんと一緒に見れるといいなと話していた日だ。
悲しいことばかりが周囲に漂っているきがして、でも実際そんなことはなくて。どんな悲劇も喜劇も所詮気の持ちようで。その時にそこに注目しているから、色眼鏡でそれを見ているからそう見えるだけだ。分かっていてもどうやってこれを外せばいいんだろうか。自由になるとはそこなのに。
誰だって物事の意味づけをしている。だからそれにいいラベルを貼ればすべていいものになる。どんなに悲しいことも、虚しくて苦しいことも。誰かの死も貴重な学びを得られる場で、あらゆる後悔を振り切る方法を考える機会なのに。
つい最近気が付いた。自分の本棚が全く変化していないことに。ただ本がそこに収まっているだけでそれはもう意味のないようなものだ。車の運転やその人の本棚が、その人柄を表すと私は思っている。だったら私はいつから立ち止まってしまっているのだろう。
自分との向き合い方が間違っている。致命的に。
遺影はテレビの正面にあって、だからまぁ。形が変わってしまっているけれど、一緒に見ていると思う。それでいいんだと。自分の気の持ちようなんだから。