餅による恣意 

ゲームとか、株とか、本とか(^u^)

誰かの視点

 人間てどうしてこうも誰かの視線をきにするんだろう。

 その誰かが代わりに生きてくれてるわけでも、何かを保証してくれるわけでもないのに。もう笑い話なんだけど、電話がかかってきただけで熱が出たりするからなw どんだけやねんw

 突発的な出来事、しかも近しい人の評価に振り回されて、しかも向こうは悪意なんてないからねw

 仮にあったとしてもそんなの分かるわけないし、分かってもどうにもならないしw

 

 父が死んでから自分と向き合うと決めた。ノートに一つ一つ書き出して、自分の認知がどうなっているのかを確かめていく。私の範囲はそれで、干渉できる部分だ。どれが間違っているとかじゃなくて、どうすれば楽に考えたり感じたり自然体でいられるかが重要で、そしてその成果が出るには時間がかかる。学んだことを実践して失敗して、また考えての繰り返し。ただまぁ、実践が余りできていないのが実情。

 恐怖が大きくてなかなか前に進めない。電話一つで心が折れてしまうくらいには。それくらい身に染みてしまったネガティブな自動思考。尽きない自己嫌悪。枯れかけている自尊心。何もかもが怖く思えるわけだ。決断が極端にできない。誰か自分を肯定してくれる人間への依存。コントロールを失った人生。

 それを自分で描いたんだとアドラーは言う。

 選ばないことを選んできた。

 以前の私のノートや手帳には自分を叱責する言葉であふれている。今読み返しても胸が痛くなる。大量に出した自分へのバッテン。

   あれもダメ。そこもダメ。失敗だ。それじゃだめだ。こうしないと。なんでできなかったのか。

 

 まだまだ沢山ある。そうでないと駄目なこと。自分が立ち直るために自分を言葉で殴った回数はいくつだろう。破り捨てた手帳は何冊だったか。どうして一生懸命に書いたはずのそのノートを開くことが苦痛になった?

 

 一人で考えていたはずなのに、誰の視点で物事を考えていたのだろう。理想とする人間や自己啓発本。それらに書かれる力強い言葉の数々は誰しもに適応するものじゃないと気が付いた。

「お前が描いた人生じゃないか」

 そう言われて、「そうか。だったら今から自分らしい人生を描くんだ」と思える人間はどれくらいだろう。一人一人に完璧に合うような言葉はない。その時の心理だったり、素質だったりで全く異なって聞こえる。現に私にはお前の責任だお前が悪いとしか聞こえてこない。その人の本を読んだ後でも。

 カウンセラーとの相性が重要なように、参考にする本の内容も重要で、自分に合ったものから手を付けることで心理的なハードルはガクッと下がる。読んでいて自分のだめな部分だけが強調されて感じられるような本は、手を付けるのにはまだ早いのかもしれない。それを見分けるには自分視点で物事を捉えるように心がけることじゃないかと思う。

 兎に角、人は一律じゃない。自分であっても毎日同じ自分ではない。それを知ることから始めなくてはいけないんじゃないか。そう思って今やってみている最中だ。